Omochi_S2のブログ

うつ病患者の日常。

⑦精神科病院へ入院

こんばんは。おもちです。

 

 

今日は夜の投稿です。

昼間は気分が落ちていて寝ていました。

天気がどんよりしていると心も身体も、

なんだか、調子も良くない気がします。

 

みなさんは、どんな一日でしたか?

どんな一日でも、お疲れ様でした。

そしてこのブログを読んでくれて、

いつも本当にありがとうございます。

 

 

 

それでは前回の続きから話しますね。

 

 

 

初めてクリニックではなく、

精神科病院というところにやってきました。

 

どれくらい入院するかも分からないので、

また地元から2時間かけて家族が手続きと

荷物などを届けるために来てくれました。

 

精神科病院ごとにルールは違うと思うけど

 

・紐靴、紐のついた服はNG

・荷物も取り上げられる

・症状のレベルによっては拘束

・症状のレベルによってはスマホ禁止

 

などなど。

 

持ってきてもらった服や靴は紐付きで、

紐なしでルールに反してないものたちを

一緒に来た妹に急いで買ってきてもらい

私は母と診察を受けて待っていました。

 

予定では1週間ほどで退院予定とのこと。

不整脈が診られるため、なくなればOK。

 

コロナの関係もあり、面会はNGでした。

長く入院してる方は予約制でOKでした。

 

 

 

初めての精神科病院での入院。

こわかったし、、不安でした。

 

 

案内されたのは、

 

・トイレとベッドと食事をとる机のみ設置

・内側にドアノブがない

・トイレも流せない

・窓もあかない

・監視カメラ付き

 

の、個室でした。

 

 

何か用がある時は唯一部屋の外が見える

小窓を叩いて、看護師さんを呼ぶ生活。

 

 

私は、幸い拘束はされなかったです。

あー、ちょっと広い独房みたいだな。

そんなことを思いながらの、1週間。

 

1日だけ、普通病棟に入院しました。

普通病棟と言っても精神科の病院ですから

入院している方は心の病を患わっていて、

どう接すればいいか何を話したらいいか、

話す内容や言葉遣いは特に気を遣いました。

 

そして、退院。

不整脈も無事おさまったので予定通りです。

 

私は入院中も心も身体も良くなくて、

頭の中はなんで助かってしまったのか

なんで死ねなかったのかとぐるぐると

死に対することばかり考えていました。

 

毎日問診されるけど元気だと嘘をつき

食欲もないのに食事は完食して吐いて

看護師さんに大丈夫だと思い込ませて

最速でここから出たいと考えてました。

 

作戦通り、最速退院。

 

家に帰った途端張り詰めていた糸が切れ

6日間絶食で、体調も心も最悪でした。

 

大人しく治るまで

精神科病院にいればよかったのに。

 

私は彼に会えないことが辛すぎて、

彼の居るこの家に帰るために退院しました。

 

退院してからも自傷行為は続き、

食事もとれない、心は不安定で、

なんとか通院して過ごしました。

 

 

夏には父の初盆。秋には一周忌。

 

 

父にお線香をあげる度に泣きました。

ごめんなさいごめんなさいと何回も。

 

家族とも気まずくなり、正直帰るのも

実家で過ごすのもしんどくて苦しくて

我慢しながら気を遣って過ごしました。

 

 

もちろん、並行して、

会社とのやりとりもありました。

 

この話は、本当にひどいもので、

本当は思い出したくもないので、

次回、書くことにしますね。

 

 

 

それでは、また次回。

 

 

 

おもち

 

 

 

⑥人生3社目の会社での出来事

こんにちは。おもちです。

 

今日は、私にとって特別な日なので

昨日に引き続き、体調は微妙ですが

続きを書いていこうと思います。。

 

 

 

それでは、本題へ。

 

 

 

新しい仕事が始まったのは、去年の2月1日。

前職はビジネスカジュアルな服装だったので

久しぶりにスーツに身を包み、胸を膨らませ

人生で3社目の会社での仕事が始まりました。

 

簡単に総務から説明を受けてから

私の教育係となる社員の方も含めて

私の体調の話をお伝えしました。

 

総務の方は落ち着いていて

寄り添ってくれる様な方で

駆け込み寺のように感じ、安心しました。

 

教育係の社員の方、

仮にAさんとしましょう。

Aさんの第一印象は、話を聞くより、

よく喋る方だなぁという感じでした。

 

初日はそのようなオリエンテーションのあと

現場や他の部署にあいさつをして回りました。

最後に営業部に着く頃には定時に近い時間で

まぁ初日だし、こんなもんかなと思いました。

 

問題は、その日の帰り際。

 

私は後輩に駅まで送迎してもらって

通勤をすることになっていたので、

営業部の隣にある後輩のいる部屋で

後輩の帰り支度を待っていました。

 

Aさんは、その日私と行動をしていたので

自分の仕事が後回しになってしまったのか

残業する様子で申し訳ないなと思いながら

隣の部屋にいると、

 

後輩や他の社員の方がいる中で

 

営業じゃなくて他の部署がいいと思うよ。と

 

もともと声は大きい人でしたが

ビックリする発言をされました。

 

帰りの車で私は落ち込み、

まだ仕事してる姿も見たこともないのに

どうしてそんなことを言ったのだろうと

自分のその日の行動や言動を思い返し、

それでも思い当たるものもなく悲しくなり

初日を終えたその日からこわくなりました。

 

やる気満々だったのが気に触ったのか

元気にあいさつして回ったのがうざかったのか

身なりが営業に向いていなかったのか

私には分からなくて、悩んで悩んで。

 

2日目を迎えました。

 

私が今やるべきことを説明されました。

Aさんが見積もりをつくるフォーマット用の

データ入力。各現場の日誌ノート約15冊程。

 

データ入力?

私は営業ではないのか?

営業事務なのか?

まずは通る道なのか?

今日はAさんが忙しくて教えられないから?

 

ハテナは、たくさん浮かんだけど

言われた仕事を黙々とやり続けて

長い長い、2日目が終わりました。

 

3日目も変わらずデータ入力。

初めての休日を迎えました。

 

ちょうど精神科の通院日で素直に話しました。

それでも私は負けない頑張るんだって伝えて、

仕事に備えゆっくり休んで休日を終えました。

 

新しい仕事2週目。中日に体調を崩し欠勤。

 

新しい仕事3週目。変わらない仕事内容。

加わったのはパワハラやセクハラに値する発言。

 

接触れられたことはないけれど、

 

周りに聞こえない声量で言ってきたり

誰もいないところで言ってきたり

 

体調が悪くて、吐いてしまうこともあって

トイレに行く回数が多かったり長かったり

総務へ呼ばれることもあって席を空けると

理由も聞かず言う間も与えず、行動を制限。

 

気持ち悪くなっても、薬飲みたくても我慢。

 

Aさんは父よりも年上の方、

営業のことは教えてくれないのに

 

私情の話彼女とデートに言った話や

薬を飲むと子どもを産めなくなるや

言葉にしたくないような過激な発言

 

ここの営業には向いていないよなど

 

いろいろな角度から私の心を折って、

それでも我慢して我慢して働きました。

 

総務には都度相談したけど、変化なし。

 

 

 

限界が来たのはちょうど2ヶ月経った4月。

1日2日は休日で、1日は精神科の通院日。

 

私は人前では別人のように強がってしまう。

大丈夫、元気。と、見えるように振る舞う。

 

 

 

そして、迎えた休日明けの4月3日。

そう、ちょうど1年前の今日ですね。

 

私は仕事に行けませんでした。

 

昨日まで仕事に備えて早く寝て

お弁当の準備までしていたのに

 

ただ部屋でひとり、ぼーっとどこかを見つめて。

 

何もしないで夕方になりました。

部屋着で髪もとかさずボサボサ、

近くのドラッグストアへ向かい、

鎮痛剤や風邪薬を大量に買って、

 

家に帰って、泣きながら無心で飲み続けました。

 

いつスイッチが入ったのか、

どうなりたかったのか、なにがしたかったのか。

分からないけど、楽になりたかった。辛かった。

 

4月3日は初めて自殺が未遂で終わった日です。

 

2時間程かかる実家から来た家族、

辛くて会わせる顔もなかったけど。

 

母と少し話をして、離されました。

 

その時は気持ちが悪くてフラフラして

何も考えられなかったです。

ただ、関わってくれていた人たちへの

申し訳なさに心が押しつぶされそうに

なりました。

 

 

助けてくれたのは、

嫌な予感を察知した後輩でした。

 

次の日、直ぐに会社に伝えてくれましたが

大事にはならずまずは調査が始まりました。

 

 

(会社の話は今後の更新で詳しく)

 

 

入院生活は過酷なもので、

家族にも彼にも後輩にも会えない。

スマホも使えない。

気持ち悪くて吐き続ける。

気持ち悪くて食べられない。

 

 

自業自得なのに。

助けてくれた人たちには申し訳ないけど

なんで助かってしまったんだろう。と。

一睡もできないまま、泣いていました。

 

 

救急で運ばれたところでは、

1泊2日このような状態で過ごし

精神科の先生により

かかりつけのクリニックの

系列の精神科病院へ転院が決まりました。

 

 

精神科病院って、こわくないですか?

 

 

また、誰にも会えないの?

スマホも使えないの?

隔離されたり、拘束されたりするの?

 

 

ドラマや映画からそんなイメージがあり

私は転院を拒み、

当時28歳ながらも大泣きして拒み続け

看護師さんたちを困らせてしまいました。

 

 

こわかったんです。

 

 

でも、母がこのまま家に帰ることのこわさ

そしてちゃんと治して欲しいという願いを

ドクターから聞いて、転院を承諾しました。

 

次の日には転院先から迎えが来て

迷惑をかけた皆さんに謝罪をして

新しい病院で家族と再会しました。

 

 

 

 

 

精神科病院での様子は、また次回。

 

 

 

おもち

 

 

 

⑤傷病手当をもらいながら生きる

こんにちは。おもちです。

 

だいぶ期間が空いてしまいました。

今後の記事にも関わる内容なので、

省略して何があったか説明しますが

体調が悪化して入院していました。

 

今は退院して、家から記事を書いています。

 

 

 

 

では前回の続きから、本題に入ります。

 

 

 

 

タイトル通り、傷病手当という存在を知り

社会保険を任意継続して手当を貰いながら

無職の自宅療養の日々がスタートしました。

 

気持ちは沈み、仕事もしないでお金を貰う。

仕事人間だった私にとって悔しさと悲しさ、

毎日毎日、しんどい気持ちで家にいました。

 

辛かった。

それだけしかほとんど記憶には

詳しいことは残っていませんが

この傷病手当で生活し始めた頃

今まで疎遠だった家族にも話し

沢山の人達に心配をかけました。

 

傷病手当も高額貰えるわけでもなく、

限界があったので宝物の車も手放して

私のメンタルは、落ちる一方でした。

 

そしていつの頃か、

辛い気持ちの逃がし方が

分からなくなってしまって、

自傷行為が始まりました。

 

ドラマや映画でしか、

見たことのなかったリストカットを、

まさか自分がするとは。

 

何の知識もなく、ただ辛い、

どうしたらいいか分からない

気付いたらカミソリを持って

お風呂に座り込み傷をつけて

泣いていました。

 

同棲していた彼は別室にいて、

泣き声に気付き来てみたら血まみれ。

 

きっと驚いたでしょう、

そして引いたでしょう。

 

カミソリは取り上げられましたが

自傷行為は何度か続きました。

 

実家に帰り、傷を見た家族は

驚き、そして怒り、悲しみ、

もうやらないと約束して。と

父と、約束を交わしました。

 

しばらくはその約束を守り、

家族の存在と彼の支えに頼り

生活をしていましたが

 

気持ちには波があり耐えられず

また傷をつけてしまいました。

 

家族には言えませんでした。

 

そんな時、父が大動脈解離で

急に他界してしまいました。

 

最後にした約束も守れなかった。

 

何度も何度も、帰ろうと思って

帰れなかった日々を悔いました。

 

冷たくなった父に泣きつき、

約束を守れなくてごめんなさい。と

家族がそろうその場で大声で泣き叫びました。

 

家族はその場でまたやったのかと知り

さらに、ショックを受けたでしょう。

 

父が突然亡くなったので、しばらく実家へ帰り

私と母と妹2人という残された女たちで必死に

父が安らかに眠れるよう考え動き続けました。

 

悲しみをまぎらわすように。

 

お葬式の準備、今後の手続きなど、

私は長女として母を支えなければと

できる限りのことは行動しました。

 

それから、しばらくして

彼に別れを告げられました。

 

好きという気持ちがなくなってしまっていこと

それは、もうとうの昔に気が付いていました。

 

それでも私は好きで離れられなくて、

かっこ悪いし本当に面倒な女だけど、

働くからまだ一緒にいさせて欲しいと

我儘を言いまだメンタルも不安定な中

後輩のツテで会社に入れてもらいました。

 

他にも転職活動はしましたが、

うつ病であることやブランクがあることで

内定をもらうのが難しく、

それもまた心を

苦しくさせる要因にもなっていましたが、

彼から離れられない自分が強すぎて

必死で辿り着いたのが後輩のツテで入った

その会社でした。

 

決して大きくもないし、

後輩のおじさんが社長を務め

いずれは後輩が継ぐ会社です。

 

事業内容や分野は、

触れたことも考えたこともないものだけど

営業として入社させてもらい、勉強もして

少しずつ、頑張っていこうと思いました。

 

仕事が決まったことにより

彼と別れることは延期のような形になり、

家も更新してもらい仕事も始まりました。

 

 

新しい仕事が始まってからが、

本当の、地獄の始まりでした。

 

 

 

 

それは、また次回。

 

 

 

 

 

おもち

 

 

 

 

④初めての転職活動を経て、新しい職場

こんにちは。おもちです。

 

ここ数日すごく体調もメンタルも悪く、

更新することができませんでした。

 

何もする気になれない、動けない状態で

X(Twitter)には

気持ちや状況をつぶやいているので、

よかったらこっちのフォローも

よろしくお願いします。 @Omochi_S2___

 

それでは本題に入ります。

 

 

 

売店を退社し、有給も使わずに

ずっと頑張ってきたのでご褒美にと

1週間次の仕事まで空きを作っておきました。

 

土日休みではなかったので、

友達にもなかなか会えなかったし

久しぶりに遊ぶ予定を何日か入れて楽しみ、

終盤は次の仕事に向けて準備をしました。

 

新しい職場は、

他のキャリア採用の人たち(同期)と違い

私は面接の時点で配属も決まっていて、

みんなと一緒に研修を受けたあとは

本社の業務を1ヶ月ほどしました。

面接の時に話していた、

企業向けのイベントの運営スタッフを

メインに進める予定で業務をしていました。

 

ですが、急遽新しい現場の立ち上げに

参加することになり

想像していた業務とはかなり異なるものに

なってしまいました。

 

私がこの会社を選んだ理由は、以下の通り。

 

・合わないと思えば現場を変えられること

・過度でなければネイルや髪色は自由なこと

・1時間以内で通勤できること

・色んな経験ができると思ったから

 

ですが、立ち上げの現場は見た目に厳しく

本社の大元である上司は男性ですが、

現場の上司は女性で、

何も過度な髪色やネイルはしていないのに

していることを注意されました。

私は聞いていた話と違うと伝えましたが、

「若いからね」や「いるだけで目立つのよ」など

今思えば、

私にだけ厳しかったような気もします。

 

その現場での仕事はコールセンターの業務改善。

売店で電話は扱っていたので、

苦手意識はなく、SVを任されたので

しっかり頑張ろうと思いました。

 

問題点はかなり多く、当時のリーダーとは

遅くまで資料作りやミーティングを

重ねていたことは今でもよく覚えています。

しかし、一段落ついた頃に

唯一心の支えであった

リーダーが変わってしまい、

業務はさらに忙しいものになりました。

 

ここに配属されてから体調が優れないことが

多くなりました。

初めは元々貧血だったので悪化したのかな?

くらいにしか思っていませんでしたが、

原因は別にあり、手術したり入院したりと、

メンバーには迷惑をかけてしまいました。

 

退院してからは体調も少し良くなりました。

 

1年ほど経った頃、やっぱり女性の上司と

上手くいかなかったことが原因だったのか、

仕事もやりかけ次の現場も決まらないまま

異動を告げられました。

 

次の現場はなかなか決まらず、

最終日ギリギリになって決定し

言われたことに従い次の現場へ向かいました。

 

新しい現場では営業事務の業務改善。

営業の経験が活かせる!と張り切って

日々の業務に励みました。

しかし、ここでもしばらく経ってから

体調不良が続き病院を転々とする日々。

 

私は仕事人間だったので、

休むという行為がすごくストレスでした。

いろんな科の病院に行っても、

大きい病院に行っても原因は不明。

私は名前のない体調不良に悩まされ、

塞ぎ込むようになりました。

 

そこで、心療内科に行ってみたら?と

内科の先生に言われ

行ってみることにしました。

 

内心、心の病気など考えたこともなかったし

なんと診断されるのだろうと不安でした。

 

当時は、心療内科や精神科のクリニックは

初診を受け付けていません。と

電話で断られるほど行くこと自体難しく、

30件ほどクリニックに問い合わせをして

やっと今通っているクリニックに

行くことができました。

 

聞かれたことに答え、

体の不調を説明し、

その日のうちに診断書を出され

すぐに休職するよう告げられました。

 

急な展開で、私自身もついていけないくらい

大きく変わった日常、

すぐに本社に連絡し休職する旨を伝えました。

 

それから、休職期間満了で

突然誰とも会わずに会社を退職することと

なってしまいました。

 

ほんの些細なことです。

私にとって仕事を休むことが

ストレスになっていた。

うつ病になったのはそれがきっかけでした。

 

なんだ、そんなことで。と

思った方もいらっしゃると思います。

でも、そんなことでも、なるんです。

 

辛いは人と比べられません。

 

それからは傷病手当をもらいながら、

約2年自宅療養を続けました。

 

 

 

その期間のことや様子は、また次回。

 

 

 

おもち

 

 

 

③新卒入社の会社を辞めて、転職

こんにちは。おもちです。

 

②を読んだ方も読んでない方も分かるよう

話を進めていきたいと思います。

 

 

身近な人の死に直面してから、

自分の仕事に集中することができなくなり

周りがとても気になるようになりました。

 

 

この人は悩んでいないか。

 

このお店はどんなお店なのか。

 

私はどう思われているのか。

 

メンバーが変わっても続けられるのか。

 

 

こんな気持ちで仕事が続けられることもなく

先輩に相談してみることにしました。

 

同じお店の先輩方を

信頼していなかった訳ではありませんが、

心配をかけたくなかったので

他店舗の先輩に話を聞いてもらいました。

 

すると、

「辞めちゃえばいい。」と即答されました。

 

私の中で、これは悪い意味ではなく

思ってもいなかった『気付き』でした。

仕事を辞めるという考えがなかったからです。

 

あぁ、辞めればいいんだ。

仕事はこれだけじゃない、ここだけじゃない。

そう気付かせてくれました。

 

でも、当時の私は、

特にやりたいこともありませんでした。

なので辞めると言ってもたくさん悩みました。

 

大学卒業の流れで

地元ではなく一人暮らしのまま仕事をしてきて

 

地元に戻って仕事を探すのか

 

またこの辺で仕事を探すのか

 

やりたいことがない分、選択肢が多すぎて

なかなか行動に移すことができませんでした。

 

ですが、

地元で生活するという選択肢は

大学を決める時から私の中にはなく

一人暮らしをして自立したいという気持ちが

強かったので、

やっぱり当時の家から通えるところで

仕事を探そうと決めました。

 

初めての転職活動。

何も分からない状態でよくある転職サイトに登録し

とりあえず、興味を持てそうな仕事を探しました。

 

売店の仕事をしながらですが、

転職活動をしてアウトソーシングの会社に

内定をもらうことができました。

売店の会社より、

名前も知られていない会社ですが

 

自分に合わないと思えば現場を変えられる

 

やりたいことが明確ではない私にとって、

当時はとても都合の良い環境だと思いました。

 

転職活動をしていることは、

誰にも話していませんでした。

 

全てが決まってから、

同じお店の私の教育係である先輩に

いちばん最初に報告をして、

その次の日に店長へ報告をしました。

 

止められるのも先延ばしになるのも

避けたかったので、

その日のうちに本社へ連絡し、

残りの納車を全て済ませること、

有給の消化、

それを加味して辞める日付を確定させました。

 

最終出勤日までの業務は基本お店で、

自分のお客様へ

一言一言手書きで全員分コメントを書いた

ハガキを作成しお知らせすること。

なるべくお店に来られるお客様は

お店に来てもらい直接挨拶すること。

あとは、通常通りの業務をこなすことでした。

 

一日一日を大切に、

お店の人や他店舗の先輩方、お客様には

感謝の気持ちを込めて業務に励みました。

 

最後、保険証や退職手続きをするため

本社を訪れた時

なかなか会えなかったお世話になった部長や

役員の方々にも挨拶ができ、

私はここで学んだスキルを活かして、

次の会社で頑張るという希望を胸に

退職しました。

 

 

 

ここまで聞くと、

ただ、しんどいことがあって転職しました!

ってよくある話に聞こえますね。

実際、退職は円満退社でしたし、

今でも仲の良かった先輩方は

たまに連絡をくれたり、元気にしてるか?と

心配してくれます。

 

会社や事件のあった店舗に

問題があったかもしれないけれど、

私にとっては学生から社会人にしてくれた

とても思い出深い大切な場所です。

 

ただ、②で起こった死は

何年も経った今でも忘れたことはありません。

 

 

 

なんだ元気じゃないか!と思っていますよね。

まだ、序盤です。20代前半の話ですよ。

 

 

 

次回から、新しい職場でのお話をしますね。

つまらないかもしれませんが、

私の生きた証として書き残させてください。

 

 

 

おもち

 

 

 

 

②学生を卒業、社会人になって

こんにちは。おもちです。

 

前回の続きを書いていきたいと思います。

 

意味深な書き方で終わってしまったので、

どんな大したことがあったのだろう。と、

想像した方もいるかもしれませんが

 

捉え方は人それぞれなので、

どうか病みやすい人は読まないでください。

 

③からでも流れは分かりやす書く予定なので

安心してください。

 

今回は少しだけ長くなります。

 

それでは、本題に入りますね。

 

 

私にとってはすごく衝撃的な出来事でした。

今思えばここから

私の心は壊れ始めていたのかもしれません。

 

 

私は、前回の記事で書いたように

2年半、会社と仕事と向き合って

自分なりに、精一杯働きました。

 

書いた通り、2年半でその会社を退社しました。

 

直接的に嫌なことがあったわけではありません。

 

確かに、営業職なのでノルマがあったり、

体力的にも女性にはハードな面もありましたが、

私はお店の仲間たちが大好きだったし、

同期や他店舗の先輩方も好きだったので

人にはとても恵まれていたと思います。

 

2年半しか働いていないので100名弱の

お客様しか自分のお客様はいませんでしたが、

子どもたちと仲良くなったり、

何台も買ったり、買い換えてくれたりと、

私を選んでお付き合いしてくれるお客様ばかり。

皆さんとても良い方たちで大切にしていました。

 

 

忘れもしない出来事。

 

 

なんでもない、平日の展示会。

私はその日当番で朝から締めまで会場にいました。

 

いつも通り、各店舗からも先輩方が来て、

同じ店舗の先輩も来て、いつも通りに働きました。

 

いろんな店舗の人が集まるので、

おはようございます!と挨拶から始まります。

何も特別なことはありません。

 

合間には、

仕事の話をしたり、お昼休憩の調整をしたりと、

自然とみんなと言葉は交わします。

 

それぞれ仕事を終え、

会場を閉めて、その日は直帰しました。

 

次の日は納車があったので、

お店で仕事をしていました。

 

私はお店にいて、販促の仕事をしていたので

他の店舗や展示会の会場の様子を

何も知りませんでした。

 

何かザワザワと心が騒ぎだしたのは、

緊急で店長会議が行われると聞いた時でした。

 

いつもより遅い時間にも関わらず開かれた会議。

次の日も仕事だった私たちは

内容を知らないまま、帰路につきました。

 

もうすぐ家だというときに、

店長から電話があり

話さなければならないことがある。と、

店に戻るよう指示がありました。

 

急いで戻ると、営業だけが集まっていて

すごくすごく重い空気が流れていました。

 

全員が集まると、店長は口を開き

今朝、他店舗の社員が首を吊った状態で

見つかった。と、告げられました。

 

私は昨日、

その人と同じ会場で仕事をしていました。

挨拶も交し、お昼休憩の話もしてました。

私と、その日同じ会場にいた先輩は、

言葉も出ずただ涙を流して話を聞いてました。

マネージャーはその人と仲が良かったので、

私には分からないほどショックだったでしょう。

 

その時点では

何も詳しいことは分かっておらず、

その事実だけを伝えられ解散しました。

 

泣きながら運転して帰りました。

昨日見た姿が頭から離れませんでした。

 

他店舗で歳も離れていた先輩だし、

特別仲が良かったわけではないし、

口数の多い人ではなかった。けど、

とにかく真面目で

優しいという印象が残っています。

 

昨日、どんなことを思っていたのだろう。

もっと話しかけていれば

悩んでいることを話してくれただろうか。

当時はたくさん昨日の自分を責めました。

 

きっと、何もできなかった。

何をしても、結果は変わらなかった。

今は、そう思っています。

 

気が付けば、入社当時から

同期は半分に減っていました。

 

自分の仕事に夢中になっていただけで

同期の1人はうつ病で異動になっていたり、

先輩でうつ病のような症状になっている人が

何人かいたりもしました。

 

あぁ、私は恵まれた環境で

仕事をしていたんだ。と気付かされました。

 

同時に、

もし異動で働くメンバーが変わったら

私も同じようになってしまうのかな。

 

一気に不安が押し寄せてきました。

 

そして、

ここ(この会社)には居られない。

そう、思うようになったのです。

 

 

 

一気に壮絶な展開になってしまいましたね。

その後については、また次回。

 

 

おもち

 

 

 

①実家を出て一人暮らし

こんにちは。おもちです。

 

さっそく、本題というか

私の今に至るまでの話をしていこうと思います。

 

とくに、重要では無いと思うところや

関係のなさそうなところは省いて話していきます。

 

 

私は田舎生まれの三姉妹の長女です。

高校まで実家暮らしをしていました。

 

趣味はスポーツ観戦。

学生時代は部活動が中心の生活でした。

 

今でも、スポーツ観戦は

唯一の趣味であり、楽しみでもあります。

 

私は、スポーツで

今でもずっと推している大学があります。

その大学の部活動で主務をやるのが、

大学での夢でした。

ですが、それが叶うことはなく

違う大学へ入学し、

外から推し大学を応援する日々を送りました。

 

大学は実家から通える距離にはなく、

高校を卒業して一人暮らしが始まりました。

 

大学は、それなりに楽しく過ごしました。

サークルや趣味に没頭し、

アルバイトもやりがいのあるものでした。

友達もたくさんできたし、

今でも付き合いのある仲間もいます。

 

就活は、苦戦しました。

やりたいことはあったけど、

自分の目指すレベルの会社に出会えなかったこと

新卒という立場を利用して入社したかったこと、

友達の中では

たぶん、いちばん遅く内定をもらったと思います。

 

内定をもらった会社は、車の販売店でした。

営業職だったので運転免許は必須、

持っていなかったので急いで取得しました。

車が特別好きだったわけではないけれど、

アルバイトで扱えない商品を扱う仕事だったので

正社員として胸を張って働けると思い、

不安もあったけど楽しみの方が大きかったことを

今でも覚えています。

 

車については自然と詳しくなり、

保険も取り扱うので保険にも詳しくなり、

コミュニケーション能力の向上や

商談の駆け引き、社会人としてのマナーなど、

たくさんのことを学ばせてもらいました。

 

今でも車は大好きです。

 

私が配属されたお店は、厳しいお店だったけど

先輩や上司は皆、実力もあり実績もあり、

このお店に配属されたいと思っていたので、

とても充実した時間を過ごすことが出来ました。

新人賞も獲ることができ、自信もつきました。

そして、これは私の強みだと思わせてくれました。

お店の人たちには、本当に心から感謝しています。

 

2年目に入る頃には会社で部活動が発足し、

マネージャーを努めさせていただきました。

まずはルールを覚え、ユニフォームを考え、

スコアも書けるようになるまで勉強もしました。

 

2年半、私は精一杯仕事と会社と向き合い

波はあったけども、一生懸命働きました。

 

この頃は仕事に夢中だったので

趣味も生活から少し遠くなり、

休日は家に引きこもるか、部活動、

会社の人とは付き合いはありましたが

友達との交流はほとんどなかった時期ですね。

 

大学時代からこの頃は実家に帰ることも少なく

家族とも疎遠になっていたし、

無意識に少し孤独だったのかもしれません。

 

ここで、私の中でこの会社を辞めようと

思うきっかけとなる出来事が起こるのです。

 

今思えば、ここが

ターニングポイントだったのかもしれません。

 

この先は、次回。

 

 

おもち